スクールバッグ・学生鞄の歴史に関して考察するページ
スクールバッグや学生鞄の歴史に関して、独自にしらべてみました。 スクールバッグ歴史考は、バーチャルミュージアムの体裁をとっています。 なお、スクールバッグ歴史考の展示資料は、すべてアトナweb管理者のコレクションです。 画像の無断使用、研究内容の本文の無断引用、転載 コピーは一切禁止します。 【注意】本文は論文調で記載しています。語尾は「~である。」を使用していることを予めご了承いただきたく思います。
明治時代
・明治5年 学制発布 明治最初期の通学風景
学制発布後、学生は、登下校時に学用品を携行する必要が生じた。その学用品を携行するために、風呂敷などが、用いられた。あるいは、学校で使用する石板(現在のノート)を何も入れずにそのまま、持ち歩いていたという事例がある。(私個人所有の史料を典拠としている。下記写真参照。明治6年 古文書)

・明治15年~明治38年

学生鞄をはじめて製造したとされるのは、東京浅草並木の煮豆屋に下宿していた野田栄蔵である。野田氏は、出身地の大阪から上京して、学生鞄を作りはじめたという。その経緯に関しては、不明である。 野田氏は、どのような形の学生鞄を作っていたかというと、文献によれば、「始めは角型であつたが、後に丸型となり、更に明治16年ごろから平型となった。最初はズツクや、其の他の織布で作つていたが、その後革製となり、生地革を用い、次いで牛チヤリを使う様になつた。」という。 文中の角型、丸型、平型に関しては、目下、不明である。素材は、当初、ズックなどの布を用いていたが、翌年からは、チャーリー革を用いて学生鞄を作っていたことが分かる。 さらに、べつの文献を紐解くと、「・・・同じ提物の分類に入れるのに学生鞄がある。~(中略)~今の背嚢を横に長くして厚さは未だうすくそれに八分位の革のバンドがついてゐて肩から掛ける様にしたもので・・・」 とある。ここから、当時の学生鞄の形態が、どのようなものか、容易に想像できる。すなわち、肩掛け式(今でいうショルダー式)であり、かつ、鞄のカブセ部分にあたるところは、前段に掛るような形で、また、マチは狭い形態であったことが分かる。 上記ほか、この頃の学生鞄の形態が、図などで残っていないものかと、探してみたところ、大日方善吉「鞄街道百余年」という書物に見ることができた。その形は、現代のショルダーバッグそのものであり、カブセのセンターには、ベロ部分が1つだけついている形になっている。カブセの長さは、前段の半分くらいの長さである。また、カブセには、装飾用のコーナー飾りがついている。 その図とともに、大日方善吉氏は以下のように詳しく記述している。即ち「綿粗布(ズック)を芯ボール紙に貼り合わせた箱型に肩紐やベロに帽体の裁落を利用したもの、上級には皮革もあったが数量的には極めて少数で、需要面でも都市児童に限られその他風呂敷であった。」という。 価格に関しては、打1円70銭~80銭(1ダース1円70銭~80銭)であったという。革製品は、打6円前後であった。 上記の諸文献からは、素材、形態等々が分かったが、寸法に関しては、不明である。今後調査を続けたいと思う。
(2013年5月14日 追記) 上記言説を上梓の後、古文書などを探査通覧していくと、明治26年の学生鞄の図が掲載されている古文書を入手することができた。この図からわかることは、大日方氏の言説に見事に合致するのである。 (上記写真参照。明治26年 明治最初期の学生鞄の図。)
なお、この学生鞄は、その後、明治38年頃まで続いていくが、その後、雑嚢(ざつのう)と呼ばれる鞄に、消費者はシフトしていくこととなる。(しかしながら学生鞄は、その後も命脈を保つことになり、風呂敷は使われ続けることになる。)
・参考文献 大日方善吉 昭和57年 「鞄街道百余年」
大日方善吉 昭和34年 「鞄街道五十年」
明治末~大正時代 雑嚢(ざつのう)の隆盛
・明治38年~大正
雑嚢(ざつのう)は、日清戦争当時(明治27~28年)、軍用として考案された物である。 その原型に関しては、不明であるが、上野智史氏の研究では、「~(前略)~原型がどこのものであるかは定かではないが、嚢の形状はドイツ軍の雑嚢に酷似しており、また、全体の姿は一九世紀後半のイギリス軍の雑嚢に似ている。」と、興味深い考察をされている(註1)。
明治37~38年ごろ、日露戦争直後、軍隊気分が社会にあり、その雰囲気から、雑嚢(ざつのう)が、学生間に流行し始める。 明治38年~大正初期までの期間は、軍隊の雑嚢の形態を模したものだったようである。この頃の雑嚢の特徴は、カブセのコーナーに丸みがある。また、全体的なフォルムも、丸みがある鞄であった(大日方善吉・前掲書)。素材は、布製、ズック製、麻製など、軽いものが用いられた。
大正初頭、雑嚢に新たな物が登場する。女児用の雑嚢や、様々な新案を盛り込んだ雑嚢が登場してくる。中でも、全体的に、四角いフォルムの雑嚢がよく使用されたようであり、現代に至るまで一部の地域で使用され続けられている。(左写真参照)これも素材は、布、ズック、麻などである。
註1) 上野智史 2003 『日本陸軍の雑嚢・背嚢・背負袋に関する研究序説』 p.p.3~4 ルドヴィカ ミリタリア アカデミア

1:女児用雑嚢、2、3、4:男子用雑嚢各種 大正時代
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昭和初期~戦前
この時期、手提げ鞄が、学生向けに新発売されてくる。大日方善吉氏の著書(前掲書)によれば、手提げ鞄は、大正時代末ごろから出始めたという。大日方氏のいう、この手提げ鞄は、フェルト素材を使用した2本手の手提げ鞄である。その他、ゴムを塗布して防水加工したものなど、素材は様々だったようであるが、形態的には、2つに分類することができる。 即ち、1本手と2本手の手提げ鞄である。 1本手、2本手というのは、鞄の持ち手のこという。この2分類で、それぞれ、多様な素材、デザイン等が考案され、消費者にとっては、選択の幅が広がっていたことと思われる。 一本手に代表される、抱鞄(かかえかばん)は、私が調べた限りでは、昭和9年には、東京の大手デパートが女学生向けに学生手提げ鞄を新型として発売している事例があり、また、昭和13年の別の資料には、学生やサラリーマンに向けて販売されていたことがわかっている。抱鞄は、その後、昭和30年代以降の、学生手提げ鞄(別名:学手、学生鞄、リーダー)の系譜につながっていく。

昭和 戦時中
価格統制・製品統制・原材料統制
昭和16年、第二次世界大戦に突入し、国内経済は、戦時統制経済となっていく。 鞄においてもその対象となり、昭和16年、学生鞄にも価格統制が及ぶことになる。その内容は、学生鞄という品目に予め国によって規格が決めらる。規格には、寸法、工作条件などの項目が付され、採点される。その得点をもとに、1級~10級までランク付けされる。ランク付けののち、各等級に応じた価格が決められることになるのである。審査は、日本鞄嚢商工組合連合会と、各地方支部によって、昭和19年まで行われたが、その後、各都道府県の価格査定委員会において価格査定を行うことになる。
昭和19年、学生鞄も製品統制の対象となる。製品統制の内容とは、生産、販売においてその割り当てを受けなければならなかったのである。また、この製品統制を受けたことで、原材料の統制も受けることとなる。即ち、製造業者は、自由に原材料を仕入れることができなかったのである。原材料統制は、戦後の昭和24年まで続くことになり、多くの学生鞄製造業者は資材確保に苦労したという。
このころの学生鞄は、昭和初期からの流れで、手提げと雑嚢があった。雑嚢は中学生が主に使用されており、手提げ鞄は前項で見たように、1本手と2本手の手提げ鞄があったという。これらは、この当時、査定により等級付けされて、価格をきめられていたのである。
昭和30年代~平成元年ごろ リーダー(学生手提げ鞄)の隆盛
昭和30年代半ばごろから、1本手の抱え鞄が、学生鞄の主流となってくる。所謂、リーダーと呼ばれるものである。国による統制もなくなり、資材が手に入れやすくなった環境のもと、天然皮革で、抱え鞄が製造されていた。当初は、牛革が多かったが、昭和42年に当時の倉敷レーヨン(現在:クラレ)が人工皮革クラリーノを開発。また、その後、帝人が人工皮革コードレを発売。両者が、従来、牛革が多かった学生手提げ鞄市場に打ってでてきたのである。昭和54年頃より牛革手提げ鞄から人工皮革の手提げ鞄に市場比率が移り代わっていくこととなったようである。 リーダー型スクールバッグ

現在のスクールバッグへ 大容量、軽い、明るい色、スタイリッシュ
昭和末~平成元年頃、学生の制服に変化が見られた。従来、詰襟、セーラー服が主の学生制服だったものが、ブレザーなど、各学校の個性を打ち出した制服が、市場に入ってきたのである。これとともに、通学鞄も、リーダータイプの市場に、様々なタイプの鞄が参入。学生鞄市場が、リーダータイプから、多様なスクールバッグへ変化てきたのである。現在でも、ある地方では、詰襟、セーラー服、学生手提げ鞄を使用している学校は、少数ながらも、もちろん存在している。これも、市場比率の変化ということであろう。いまや、大容量、軽い、明るい色、現代的で、 スタイリッシュなスクールバッグが隆盛している。